私は昔、兄から譲られた太宰治全集を、「やっぱりいい」と返したことがあります。
中学の時に読んだ『斜陽』(十四かそこらで内容が理解できていたと思えませんが)に始まり、『女生徒』やら、一時期は熱心に読んでいました。
が、いつの頃からか、本棚にどーんと並んだ函入りの太宰治全集から「女々しいオーラ」が漂ってくるように感じて、持っているのがイヤになってしまったのです。
そんなわけで長い間読まなかった太宰治ですが、久しぶりにちょっと読んでみました。神奈川近代文学館で開かれている太宰治展を見に行く気になったからです。
おお、哀しくも滑稽な『畜犬談』。出た、十八番の告白体『灯籠』に『きりぎりす』、語り手の心理分析をするとかなり面白いぞ。という感じで簡単にリハビリを済ませ、
神奈川近代文学館へ。
おびただしい量の写真、原稿、書簡から学生時代の落書きだらけのノート、珍しい自作の油絵に愛用していたマントまで、かなり力の入った展示でした。ここまでプライバシーを公開されて、ご本人草葉の陰で「コロシテクレ」と言ってないかと思うほど。
筆跡心理士としては、ある小説の生原稿に、顕著な破滅型の筆跡特徴をみつけてゾクッとしたり、芳名録の、エネルギッシュな林芙美子らの署名に続く、弱々しい筆圧の署名に納得したり。
一番印象的だったのは、『如是我聞』というエッセイから抜粋された言葉でした。
<文学に於て、最も大切なものは、「心づくし」といふものである。(中略)つまり、「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或ひは文学のありがたさとか、うれしさとか、さういつたやうなものが始めて成立するのであると思ふ。>
なんとサービス精神にあふれた、温かな創作態度ではありませんか。
多少人生経験を積んだ今なら、その心づくしをきちんと味わえるようになっているかもしれません。ヒマをみて、ぼつぼつ、太宰治を復習しようかな。
コメント